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*真夏の決断

2018年 07月21日 15:00 (土)


2018年7月19日(木)
母の病状について医師から説明を受けた。
難しい選択を私に迫るものだった。

肺炎はほぼ回復し、呼吸も酸素マスクなしとなっている母。
ただ大きな問題は、食事を拒絶または、ほんの少しだけしか口にしないこと・・・

生命を維持するための食事・・・
人間の本能である食事ができないのは生命維持のために致命的なことである。

そこで、医師から私に示されたことは、
①水分と塩分だけの点滴
②鼻から管を入れての栄養補給
③大きな血管に管を入れての栄養補給
④胃ろう

母は高齢で認知症(介護度2)を患っているため、
②と③は、リスクが大きい。

選択肢は2つに1つとなった。

水分・塩分だけの点滴だと余命1ヶ月と告げられた。
人生の幕引きを私がすることになるのだ。

胃ろうは、生命の維持はもちろん、
人によってはデイサービスにも行ける場合もある。

母の場合、胃ろうでデイサービスに行けるようになれるとは思わないが、
せめて、話くらいできるようになってもらいたい。
しかし、食欲のなくなった老婆に対して、
無理に栄養補給することはやはり延命処置ということになるであろう。
海外では、胃ろうは「老人虐待」と言われているらしい。

しかし、3週間前までチーズトーストを食べ、
私が作ったチャーハンと野菜スープを「美味しいね。」と言って食べていた母。
その母が余命1ヶ月なんて、私は到底受け入れられなかった。
年相応の衰えはあるものの、死を覚悟する決定的な病気はない。
老衰・寿命・・・
母の死に対して、私がこんな選択をする日が来るなんて。
もちろん漠然とは、考えていた。まさにその時が今なのだ。


結局、私は胃ろうを選んだ。

今を逃すと胃ろうも出来なくなるということだった。

せめてガイコツのようになった母の頬が、
少し、ほんの少しでもふっくらするまで、元気になってもらいたい。
最後の娘のわがままかもしれない。


「早くおじいちゃんの所へ行きたいよぉ~!」と言いながらも
「誰でもそれは本心じゃないからね。」と付け加えていた母。
母の命が風前の灯に近づいてきた現在、私は何をしていても、
決めたはずの現実のことを「本当に正しかったのか?」と、
自問自答している。

*母、救急車に乗る・・・

2018年 07月10日 12:09 (火)


母の病状が気になって朝5時に目が覚めた。
天気予報通りに朝から雨がシトシト降る、金曜日だった。
もう、家庭での療養は無理と判断して、
私は119番に電話をした。

たしか「火事ですか?救急ですか?」と聞かれたように思う。
「救急です。91歳の母です・・・・・
近くに来たら、鳴らさないでいただけますか?」
「救急隊がそれは判断します。すでに救急車を差し向けています。」

すぐに電話を切り、救急隊を待つ。
さすがに電話の最中から、段取りをしていたせいか、
私が玄関に出ると、近くでサイレンの音が聞こえ、そして止まった。


3名の救急隊員がやってきた。

矢継ぎばやに、いくつもの質問が私に浴びせかけられる。
しかも怖い顔で・・・
「なにか私、悪いことした?母が弱ったのは私のせい?」
まるで私が攻められているような気がした。

母と私が救急車に乗ると、
雨音がうるさいほどだった。

母は酸素不足で高濃度の酸素吸入をしてもらった。
少しずつ数値が上がっていった。

その間、救急隊は3軒、救急病院に連絡をしていた。
一つ目は、電話に出ない。
二つ目は受け入れてもらえない・・・
三つ目でやっと受け入れてもらえることになった。
出発までに20分は救急車の中に留まっていた。

徐々に救急隊の若い隊員にも笑顔が戻り、
被爆手帳を見た彼は「ご苦労されたんですねぇ!」と
ほんの少しだけ場が和んだ。


病院に着くと、母が三台目に到着した車だった。
朝から具合の悪い人が多いようだ。
待合場所でも数家族が救急室の方ををじっと見つめていた。

私が母の検査を待つ間も、
「今、先生に診ていただいてます。」と
先ほどの若い隊員が声をかけてくれた。

私の席の隣の女性が、急に大きな声を上げ、
発作のような感じになった時も、
その彼はすぐにその女性の所へ行き、体をさすりながら、
「どうしました?ここは病院です。大丈夫ですよ。」と
やさしく語りかけていた。
その対処がとても自然で、女性もすぐに落ち着いた。

日ごろから、消防隊や救急隊の方々は、
生命の危機に直面しているわけだが、
母への対応、また病院での女性のこと・・・
その堂々とした責任感のある行動は間違いなく尊敬に値すると実感した。




それから私が医師に呼ばれたのは、
病院に運ばれてから1時間半は経っていたと思う。
検査を経た後、
若い医師によって病状が私に告げられる。

誤えん性肺炎・心肥大・・・・





そして入院となった。


*母の入院

2018年 07月10日 11:02 (火)


例年になく早く梅雨が明けた2018年。
最近の母は、すべてのことにおいて、衰えが進んでいた。
転倒も多くなり、腰というか背中の曲がりもかなり目立つようになった。
骨粗しょう症のせいであろうか?
的はずれな会話、口うるさいだけの母がそこには居た。



6月30日~7月3日までいつものショートステイでお世話になった。
3日の日、帰ってきて、「今までにこんなに疲れたことはなかった。」と・・・
少し胸のあたりで痰がからんだように思った。
鼻水も少し。
「風邪、ひいたかな?」と思った。
少食で幼稚園児程度の量しか食べない母。
それでも野菜スープを「美味しいね。」と飲んでいた。
翌日、デイサービスの予定だったので、
早目に床についた。

翌日、朝はチーズトーストをしっかり食べて、
デイのお迎えを待ち、いざ出発!
玄関で靴に足を入れた時、元々前傾姿勢な母がそのまま前に倒れて、
おでこを床に打ち付けた。
その後、普通に杖で歩いて介護士の方とデイへ向かった。

そして午後、
デイから「お熱が38度2分あるので、お迎えをお願いしたい。」との連絡あり。

その1時間半後、タクシーでデイサービスに私は向かった。
この時までは、そんな重大なことと思っていなかった。

そのままタクシーで、かかりつけ医の元へ向かった。
保険証など持ち合わせていなかったが、
優先的に順番を早めてくれる心遣いが、
弱り始めていた母にとってはありがたい。

診察室では、いつもとそう変わりない母。
そのときは、胸のあたりのゼロゼロはない・・・
抗生物質と痰をきる薬、頓服を処方された。

しかし、その時、気になる医師からの言葉。
「症状が今より悪くなるようなら、すぐ救急車を呼んで下さい。」

医院から帰り早速、処方された薬を服用。
とにかく、ベッドに横になることにした。

たまに様子を見に行った。
熱は高くはないが、微熱が続いていた。


そして、翌朝は熱も36度台になり少し落ち着きを見せた。
私も仕事に行くことができた。
もちろん、遅く出て、早く帰った。

キウイをつぶしたものや、おかゆも食べられた。
そのまま快方に向かうと思われた。
目を離すと、パジャマから洋服に着替えようと、
ベッドに座る母。

しかし、ベッドに座ることはできるが、
立ち上がろうとはしない。
今思えば、立ち上がれなかったのだ。


その晩も薬をしっかり服用し、
ベッドに横たわっていた母。
熱は、36度台~37度。

私はこの頃から少し不安になっていた。
完全に熱が下がらない。


翌朝5時、母の元へ行き熱を計った。
37度台・・・

食事量も少なく、水分も十分とはいえない。
このままではどんどん弱る一方だと確信。

もう、ダメだ!
朝6時、119番に電話した・・・



同じ日、母の出身地、広島では豪雨災害に襲われていた。

*最近の母 2017年秋

2017年 09月20日 17:00 (水)


認知症の母と同居して3年が過ぎた。
母の認知の症状は、明らかに悪くなっている。
しかし、介護度は【要介護2】である。

ここにきて、やはり耳が遠いことが彼女にとって致命的なことだと
はっきりしてきている。

娘の私の声が一番聴こえづらいようで、
意思の疎通に問題が出てきている。

さすがに何回も「え~っ???」と言われると、
こちらも「もう、いいわ!」となってしまうのである。

食事もなかなか食べてくれない状況が出てきている。
小さく刻んで、柔らかく煮たものがいいかと思い調理する。
手をかければかけるほど、がっくりすることが多くなる。

今はもう、母が食べてくれるものは何なのか?と自問自答する日々。
これが私の課題であり、またある意味ストレスでもある。

飲み込みづらい、噛み砕けないイコール柔らかい物と思うが、
不思議に、お煎餅は食べられるのである。

こうなると好きなものなら少々硬くても
食べるということなのか?


現在、身長約130cm、体重31.6㎏

年齢的な機能低下はあるものの、
内科的には重大な問題はない。


これから、母とどう向き合っていくべきなのか?


「一人しかいない娘だから」と母は言う・・・

「実の親子の介護だから、いいじゃない!」と思われがちだが、
実の親子だからこそ、ボケた母相手にやりあってしまう。
私は「一人しか・・・」と言われるのが一番嫌いだ!
好きで一人っ子になったわけではないのだ。
しかし、ここは私が1歩、2歩譲ればいいことなのだが、
私も未熟者なのである。


3年前の秋、
小出川の彼岸花を母と夫と私で見に行ったことがある。
ちょっと秋めいた空気のやや気温が高めの日曜日。
ちょうど彼岸花も一番良い時で、綺麗だった。
子供の頃には、忌み嫌っていた彼岸花。
今では、その赤の美しさが多くの人を魅了する。

母にまたあの彼岸花を見せることができるのであろうか?

そんなことを思う初秋の今日この頃である。



*旅立ち

2017年 02月17日 17:36 (金)


おととい(2月15日)、95歳になる母の姉がこの世を去った。
いとこが迷った末、昨晩、私にそのことを連絡してきた。
広島と横浜、私の母がショックを受けるかもしれないという二つの点から、
迷いがあったということだった。
お通夜・告別式には当然間に合わないので、
連絡を受けてすぐにプリザーブドフラワーとお線香付きの電報を打った。

私も伯母の死を母に告げることを少しためらったが、
分からないとしてもやはり伝えることにした。

「そうなの。姉がねぇ。(ちょっと涙ぐむ)じゃお香典を送らないと・・・」
そう言ったと思ったら・・・
「明日はディサービスだったねぇ。7時に起きなくちゃ!」と・・・

心が完全に鈍化している・・・
自分が生きるのに精一杯なんだ・・・
それは仕方がないこと・・・


それが人が行く道なんだと思いながら、
少し悲しい気持ちになった。